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アイデンティティの拡散に対する必死の抵抗(仮説)

今日はちょっと長い話になるのですが、せっかく来ていただいたので是非見ていってください。

 

あんまり差別的な呼称をつけるのはどうかと思うのですが、現政権を狂信的に支持して困窮者や外国人や女性を徹底的に攻撃するタイプの人々に対して、私は全く良い印象を持っていなくて、そういった類型の人たちは何を動機としているんだろう、どこにその原動力があるのかなとずっと疑問に思っていました。

 

 

で、最近、アメリカの心理学者、エリク・H・エリクソンの著書(『アイデンティティとライフサイクル』訳:西平直・中島由恵)を読む機会があったところ、こんな文章がありました。

 

自分自身を拡散させないために、一時的に彼らは、一見すると完全にアイデンティティを喪失したと思われるほど、徒党や群集の英雄たちに過剰に同一化する。他方で他人を排除することにかけては、非常に排他的で、不寛容で、残酷になる。 

 

エリクソンの著書は1959年にアメリカで発行されたものなので、ここで言う「彼ら」は別にネトウヨと呼ばれる人々のことを指しているわけではないのですが、ああなるほどこのことかと思わざるを得ないのです。

 

エリクソンは人生を8つの発達段階に分けて説明しており、青年期の発達課題が「アイデンティティの確立」とされています。

 

発達課題というものは、「大体人生のこの辺のステージにいる人は、こういう課題に直面するよね、それで、うまくいけばこんなことが実現されるよね」という話のようです。

孔子の「十五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず…」みたいな話と少し似てますかね(ただ、中身は大分違います)。

 

アイデンティティとは、自分が何者なのかを知ることにあるわけですが、エリクソンの提唱する発達段階に沿ってみれば、青年期に至るまでに、これまで育ってきた中で基本的な信頼が醸成され、自分の所属する社会の規範を知り、自分を律し、自らの意思で何かを成してみるという、それまでの色々な発達課題が積み重なって完成するものなんですよね。

しかしながら、これが案外難しい。

確か、別に過去の段階の発達課題が全部達成できていないと次に行けないという訳ではなかったと思うけど、色々影響し合うようです。

 

基本的な信頼が築けない環境で生育したとか、社会の規範に急激な変化が生じたとか、これまでは何の問題もなく生きてきた人間関係と全く異なる異質な考えの集団に放り込まれたとか、そんなこんなで青年期のアイデンティティは危機に瀕するのです。

 

そうしたとき、何とかしてアイデンティティを拡散させないようにしたいという必死の抵抗を行う者に、全体主義的な教義は大変都合よくアピールしてしまうのだそうです。

 

つまり、「長男エライ」で育てられてきた古風な価値観の家庭の長男である男性が、俺は長男だからと彼なりに一家を支えるべく頑張って勉学に励んできたところ、社会に出たら世の中男女平等で、唐突にこれまでのアイデンティティを喪失しそうになるとか、

何でも我慢を強いられてきたために「我慢すべき」が規範となってしまっている人が、我慢できずに声をあげる弱者に対し、自分が耐えてきた「我慢すべき」という規範がぶち壊されて自分の存在意義が危うくなるとか、

そういう時に逃げ込んだ先が、男尊女卑的な価値観を振りかざす集団だったり、兎にも角にも我慢を美徳とする価値観だったりして、それ以外のアイデンティティを持たない者であればあるほど、必死にしがみつき、それにそぐわない者を排除しようとするのではないでしょうか。

 

私は心理学の分野にはそれほど明るくないので、エリクソンの理論が現在でも活きているものなのか分かりませんが、醜悪な行為を繰り返す人々の原点が、少しばかり見えてくるような気がします。

 

エリクソンはこうも述べています。

 

重要なのは、こうした不寛容が、アイデンティティ拡散の感覚に対する防衛のために必要とされている点を理解することである(理解するといっても、大目に見ることでも、加担するという意味でもない)。

 

アイデンティティが危機に瀕している彼ら自身も、時代の変化の被害者なのかも知れません。憎むべきは彼らをそのような貧弱なアイデンティティに育て上げた旧時代の価値観、ということになるのでしょうか。

とはいえエリクソンの言う通り、「大目に見る」とか「加担する」態度が良いわけないのは当然なので、異議は唱えていく必要がある)

 

 私たちが、我が国の若い男女に対して、我が国の歴史と彼らの子ども時代が彼らのために準備してきた人生に再び専念する機会を、確かに信頼できる形で約束してみせる努力をすべきことは明らかである。これは、国家の防衛に関わる課題の一つとして、忘れてはならないことである。

 

エリクソンは「人生に再び専念する機会」の提供が国家の防衛に関わる課題とまで言い切っています。

「人生に再び専念する機会」はどういったものであれば良いのでしょうか。一つには、彼らの苦労が報われて職業的なアイデンティティが確立されていけば、極端なイデオロギーにしがみつくことも必要なくなるのかも知れません。

しかし、現在の我が国のアンバランスな経済状況の下、思うように職業的アイデンティティを確立していけない人は少なくないことでしょう。

教育や職業選択の機会を貧困層にこそ充実させるといった政策が、本当の意味での国防であるということかも知れません。

 

他方で、それとは全く別な形で、世の中にはアイデンティティが生まれ変わったかのような劇的な(良い方向での)変化を遂げている人がいるように思います。

国家の防衛としての社会保障政策とは別に、どのようにして人が変化を遂げられるのかをひも解くことができれば、社会もまた少しばかり良い方向に変化していくのではないかと考えています。

 

その辺り、まだ上手くまとまらないのですが、後日書いてみたいと考えております。

 

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