血と言葉と、democracy
今、書きたいことを書きます。
今日は2018年4月14日、つい先ほどのことですが、国会前に安倍政権に抗議する5万人が集まったそうです。
実は私もわずかな時間ですが参加しました。
デモに向かう前、小沢健二氏の書いた、デモについての文章を読みました。
世界の「普通の」都市ではデモは日常的なものなのだそう。
対して、独裁者が恐怖政治を敷いているところではデモは起こらないのだそう。ところが、そういう街で突然デモが起こり、血まみれの戦いになってしまうことがあるとのこと。
私は近年中東であったアラブの春のことなどを思い浮かべました。
中東各国で市民運動が巻き起こり一部で民主化が広がりましたが、シリアは結局悲惨な状況になってしまっています。
デモが自由にできる我が国は、まだ比較的平和と言って良いのか、こんな異常事態になるまで起こらない異様な国と言うべきなのか、よく分かりませんが、とにかく権利は最大限使おうと、デモに参加してきた次第です。
さて、政権のトップが友人の利益のために国の財産を損ねるという出来事が、我が国の少し前に、韓国でも起こりました。
韓国では大規模なキャンドルデモが何ヶ月も続き、ついには大統領は失脚し、有罪判決も下されたようです。
他方で、我が国はほぼ同じ事象が起きながらこうした市民運動が(かなり盛り上がってきましたが)まだまだだなと思っていたところですが、その韓国のデモや市民運動について、その歴史的経緯の一端を、以下の記事で初めて知りました。
韓国では、まだ人々の記憶に残っている時代に、対独裁政権での血を流す戦いがあったようです。
それを乗り越えての現在の市民運動だったのだと思うと、胸に来るものがあります。
我が国でも、昭和の安保闘争の頃には、血の流れるデモがあったわけで、その時代をわずかに知る我が親などは、現在のデモの様子を見て「随分と変わったな〜」との感想を述べておりました。
民主主義のあり方は、変わって行くものではあるのでしょう。
どう変えるかはその時代の人々の、それぞれの動き次第。