祖父のこと
祖父のことを、その人生や語ったことまで含めて覚えていられる最後の方の世代だと思うので、いつかどこかに書いておかないといけないなと思って久々の更新です。
※一部差別的な用語が出てきます。戦争当時の発言の伝聞としてそのまま残します。
うちの祖父。
西の方の、かなり山奥の辺鄙な村で生まれ育ちました。
父(祖父の末子)がおそらく小学生の頃あたりに県内の市街地に引っ越してきます。
よく分かりませんが、田舎の色んなシガラミというのが性に合わなかったようです。
とはいえ、田舎の親戚や友人などもそれなりに居て、慕われていた模様。
90で亡くなった彼の葬儀のときにはわざわざ田舎から来てくれた方がいらっしゃいました。
孫の私が遊びに行けば「おお!よぅ来たなぁ!」とニコニコ。
お酒が好きで、大体いつも上機嫌の赤ら顔。ちょっと猿に似ています。
学がないと本人は言うけれど、読書が好きで機転も効く。
かなりの歳まで細々と仕事はしていました。
若い頃は分かりませんが、私の知る限り、怒ったり泣いたりしているのを見たことがありません。一度しか。
そんな祖父の涙を見たのが、以下の話。
戦争の折には、祖父も含め、ド田舎の郷里からも若者がごっそり徴用されたそうです。
祖父は衛生兵として中国に渡りました。
大陸に渡って早々、祖父は銃を紛失したそうです。本当に過失で紛失したのか、戦うのが嫌でわざと失くしたのか……祖父の性格を考えると後者もあり得るように思います。
「お前はチャン銃、チャンコロの銃でも持ってろと……」
当然こっぴどく怒られたようですが、祖父は中国兵の使っていた銃を持たされます。
中国兵の銃は性能が悪く、あまりまともに機能しなかったとのことですが、むしろそれで良かったというように話してくれました。
戦地に向かう際、所々で祖父は路傍に放置された中国兵の遺体を見ます。
「それが皆丸々と太っててな、あいつらはええもん食っとるんやなぁと思たんや。」
しかし、すぐ後に知ることとなったそうですが、それは太った兵士の遺体ではなく、放置された遺体が腐敗し膨張した姿でした。
「えらいとこに来てもうた」
祖父がそんなショックを受けても、行軍は無慈悲に続きます。
道中、軍は中国兵を一人捕虜にしたそうです。
元来剽軽で人好きな祖父は、言葉が分からないながらも捕虜と交流を図っていたそうです。
敵対しているとはいえ同じ人間なのだと、捕虜との交流で実感したそうです。
しかし、月の光もないある晩のこと、その捕虜が逃亡します。
「撃てー!」と上官の命令があります。撃たなければ命令違反で処罰されます。
「どうか、当たらんでくれと祈りながらな、真っ暗な原っぱに向けて撃ったんや」
翌朝、辺りを捜索したものの、捕虜は見つからなかったそうです。
「戦争は、アカン」
涙ぐみながらも力強く、祖父は言いました。
「日本はほんまに酷いことした」
戦地に行った祖父は、凄惨な現場を見てきたことでしょう。孫の私に話せたのはこの話がやっとだったのかもしれません。