“I’ am”と”I have”を除いて何が残るか。
セクハラ問題を受けて今どうしても投稿したくなってしまいました。
三部作の途中にぶっこんで申し訳ございません。
先日、朝デジの「オトナの保健室」で興味深い漫画を見ました。
作者の田房永子さんによる別媒体のコラムはこちら。
詳しくは、漫画とコラムを読んでいただきたいのですが、私が理解した概要としては、
セクハラする人が相手を人間扱いしていないということについて、実は彼ら自身が自分のことを人間扱いしておらず、肩書きなどの外身でしか自分自身を認識していない
という指摘です。
これは非常に鋭い視点だなと思いました。
何度かこのブログでも、アイデンティティの問題について書いてきました。
中でも、全体主義への傾倒などの他者への不寛容さはアイデンティティ拡散の感覚に対する防衛として表れるという、エリクソンの問題提起について、解決策を勝手に探っています。趣味で。
エリクソンは、そうした問題に対して、おそらく主に職業的アイデンティティを想定して、国が彼らに人生に専念する機会を用意しなければならないと述べているのですが、私はちょっと違うことを考えています。
まず、思うように職業的アイデンティティを確立するのは、現在の我が国のようなアンバランスな経済状況では非常に困難です。
また、仮に政治が人々に職に就くことを約束できるとしても、お仕着せのような職業で人のアイデンティティが健全に保たれるのか、正直疑問です。
(だからと言って国が無策で良いわけでは全くなく、基礎教育〜高等教育の機会を平等に保障するとか、生存権が自己実現を可能とする程度に十分実行的な形で保障されるとかはもの凄く重要だと思っています。)
で、私の考える答えとしては、今のところ「自由ネコを読め」というか「まずは自分自身を大事にせよ」なんですが、これが極めて感覚的なものであまり理屈としては説明できてなかったんですよね。
それが、田房さんのマンガを見て、すごくピンときたのです。
つまり、他者に不寛容だったり人権を平気で蹂躙できる人間というのは、その人自身、人に中身があることを知らずに生きているのではないかということです。
自分に中身がないので、学歴を、肩書きを、国籍を、性別を、アイデンティティとしてしまう。
しかし、それだけだとそうして身に纏った外身だけを大切にして生きているので、他人に中身があるなんて想像もつかないのです。
なので、もしその人たちに「自分自身を大事にせよ」が響いてくれれば、自らの中身を満たし自分自身に価値があり人権があることを理解してくれれば、自ずと他者に対して寛容になり、共感を持つ生き方ができるのではないか。 と、そのように思う次第です。
タイトルに書きましたが、自己紹介するときって、“I’ am”とか”I have”の表現をまず考えますよね。
例えば、
I am 40 year’s old.
I am a high school student.
I have a daughter.
でも、人間の本質って、それだけじゃ表せないのではないかなと思うのです。
“I am 〜”でも”I have 〜”でもない、本当の中身を、大切に育みたいものですね。
ところで、自由ネコさんが、
そして「完全にOKな私」になった時、もはや人は自分を肯定も否定もする必要がなくなる…のではないか。
ついに悟りの境地に至った模様です。
今なら自由ネコさんが人生相談に乗ってくれますのでぜひ・・・ (あんまりやると回し者みたいだ。単にファンなのです)。