妄想国家育児社会 前編
たまに「もしも」の世の中って想像しませんか?
何だか閉塞感溢れる現代社会を考えるとこれくらいの制度があっても良いのでは?と特大の「もしも」を考えてみたのですが、結構どう転ぶか分からないものになってしまったぞ…。
そんな訳で、フィクションを書いてみます。書いてみて、気が向いたら膨らまして小説にしてみます。
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西暦1945年冬、太平洋全域を巻き込んだ大戦を仕掛けた東アジアの某国は連合国軍による猛攻により事実上壊滅し、人口の4分の1を失った同国は西側各国の共同統治下に置かれた。
この国の最大の問題点は、万世一系などと謳われた同国の王制と血統主義を中心とした家父長制にあることを看破した統治政府は、王室を解体するとともに、諸悪の根源である血統を破壊することに決めた。
「血統」を破壊するとはどういうことか。
すなわち、旧王室から庶民まで、生まれた子は全て一旦政府預かりとなり、ランダムに他の親に割り当てられることとなったのである。
基本的には子を産んだ夫婦に、別の子が割り当てられることとなる。どの家庭にどの子が割り当てられたかは明かされない。
多胎児を出産した場合、育児の負担を考慮し、まず一人の子が割り当てられる。その後育児環境に問題がなければ、翌年に新しく生まれた子が割り当てられる。
未婚または離死別の女性が子を産んだ場合や、出産時に妻が死亡した場合の夫には、育児環境が備わっていると認められる場合には子が割り当てられる。
こうした割り当てにより余る子どもが生じる場合には、養子を希望する夫婦に割り当てられ、それでも養育先が不足する場合には国の施設において育てられる。
制度開始当初の混乱は、それはもう阿鼻叫喚であった。
我が子を取り上げられたくない妊婦が逃亡し、一人出産しようとして母子ともに亡くなる事故が多発。
血の繋がった我が子を取り上げられたことに落胆した親が自刃し、行き場のない子が残されるという悲劇も起きた。
そこまでの事態にならずとも、制度開始前に生まれた実子と、制度開始後に振り分けられた子に差別を行う家庭も少なくなかった。
特にいたましいのは、割り当てられた子に生まれついての障害があった場合。自分の子でもないのにこのような子を育てられないと、子が虐待される、棄子となるなどし、全国的に社会問題となった。
戦前戦中の間に強力に根付いた血統主義と家父長制に染まった民衆の中に、この新しい制度を難なく受け入れられる者は決して多くはなかった。
しかしながら、制度開始後間も無く旧王家に子が誕生したことが報じられると状況が一変。「我が家に割り当てられる子が王子かもしれない」という期待から、子を受け入れ、丁重に育てる家庭が増え、制度に対する評価も肯定的なものに変わっていった。
皮肉にも、王室と血統主義を否定しようとした制度が、王室と血統主義的な期待によって救われることとなったのである。
当初は受け入れ難いと思われた制度も、一度定着すると、それに新たな価値が生まれるものである。
この国では、子どもは国民全体の宝であり大切に育てるものであるという価値観が、国内に急速に広がっていった。
見ず知らずの妊婦が生む子が、我が子、我が孫になるかもしれないという期待から、あらゆる妊婦が大切にされるようになった。
他人が育てている自分の子と同じ年の子どもは自分の実子であるかもしれないという思いから、あらゆる子どもが大切にされるようになった。
国民の子どもは国民全体で育てる国家育児原則は、少なくとも建前上は福祉的意味合いを持って憲法に規定されることとなった。
占領統治から自治に移行しても、この傾向は続き、様々な法制にも反映されるようになった。
子どもに対する犯罪は極めて厳しく糾弾されるようになり、旧法にあった尊属殺(両親、祖父母など、血統上父母と同列以上にある血族に対する殺人が通常より重い刑とされていた)が廃止されると同時に、未成年者の生命身体に対する罪が通常より重い刑とされることとなった。
また、障害を持って生まれた子のケアを家庭のみにおいて担うことは不平等との意識も高かったことから、地域の関わり方が格段に向上したと共に、福祉制度が大きく向上することとなった。
戦争により若者人口が激減し敗戦直後は自然に滅亡するのではないかと危ぶまれたこの国であったが、その後多くの先進国が少子化高齢化に悩まされる中、この国だけは2.0を超える出生率を維持し、東洋の奇跡と言われるようになった。
〜To be continued?〜