さよならワンオペ育児?

夫が仲間になりたそうにこちらを見ている

妄想国家育児社会 後編

前回記事

one-mam.hatenablog.com

 

あらすじ

国民が産んだ子どもは、産まれた瞬間から一旦国家預かりとなり、ランダムに別の国民に割り当てられる「国家育児制度」。

当初、大戦の諸悪の根源である「血統」を断つことを目的として導入された制度が、「子どもは国の宝として大切に育てる」という新たな価値観をこの国に醸成した。

 

 東洋の奇跡と言われたこの国家育児制度は、追随する他国こそなかったが、高齢化に悩む国際社会からはポジティブな評価を得ることとなった。

全ての子どもが「自分たちの子ども」として手厚く保護を受け、充実した児童施設には諸外国から高官たちが視察に訪れた。

誰もが自分の血を引く子どもを育てないこの国では、不妊の夫婦が養子を求めることもごく通常のこととなり、倫理的側面で議論が生じる代理母出産もほぼなされなかった。

 

元々敗戦のペナルティ的に押し付けられた制度であるとして嫌悪された国家育児制度は、今や逆に「世界唯一の国家育児制度」として福祉国家の理想と掲げられるようになった。

国家育児制度を定めた憲法の条文について「押しつけ憲法である」などとして改憲を訴える政治の動きは時折あったものの、国民の大勢は護憲を望み、改憲の動きは幾度も封じられた。

また、戦後数十年が経つと生みの親と別の親に割り当てられて育った子どもたちが親になり、血のつながらない親子関係を当然のものとして受け入れる社会となっていった。

 

 

もっとも、国家育児制度がこのように順調に隆盛した一方、その闇もまた深く暗いものになっていた。

 

 

一つには、生まれつき身体障害を有する子ども、深刻な病を抱える子どもが秘密裏に「処分」されていた問題である。

産まれた子どもがランダムに別の家庭に割り当てられることから、障害や病気を有する子どもが割り当てられた際の割当親の抵抗は、実子の場合以上に強いものであった。

様々な医療・福祉制度の充実が図られ、急速な福祉国家化を果たしはしたものの、特に終戦直後からの数十年、受け入れ家庭の困難さ軽減のため、特に程度の重い身体障害や病のあることが明らかな場合には、国家が当該子どもを死に至らしめることが正当化されていた。

国家全体に経済的余裕のない時期においてはかかる制度は黙認されてきたが、この当時の制度により夥しい数の障害児・病児が暗黙のうちに葬られたことは、国が優生思想を率先して推し進めたものとして国際的な非難の対象となった。

後世の記録から、産んだ子を国家に消されたことを知った生みの親が集団で政府を訴えたが、生みの親に親権はないとして、裁判所はこの訴えを退けた。

 

もう一つの大きな問題が、国家育児制度と各種福祉制度の対象者に誰を含むかという問題である。

元々実質はペナルティであったこの制度の対象者は、「国民」と定められ、国籍を別にする者は対象とされなかった。そのため、敗戦前にこの国に連行され帰国ができなくなっていた在留外国人が国内に多数存在していたが、彼らは国家育児制度の対象とならず、血の繋がった我が子を取り上げられることなく育てることができた。

しかし他方で、彼らの子どもは「国民の子どもは国家全体で育てる」という制度の枠組みから外れ、障害や持病を持つ子どもの育成に関わる様々な福祉制度から外れてしまうこととなっていたのである。

年金や健康保険などのいくつかの福祉制度は、在留外国人からも保険料を集めるために例外的に間口が広げられたが、専ら税金を財源とする国家負担の重い制度について対象とすることは、特に国粋主義的な保守層からの大きな反発があり頓挫した。また、国の経済が停滞するとともに排外思想が広まり、在留外国人への差別が危険な水準で増大した。

 

 

国家育児制度の暗黒面は、その制度のメリットを覆い隠すほどのものとなり、この国は優生思想や全体主義をより悪化させた陰惨な国家として、前の大戦のネガティブなイメージとともに国際社会から危険視されるようになった。

 

 

ついに国連からの脱退を決めたこの国が再び過去の惨禍を繰り返すことになるのか、それとも新たな未来へ進むことができるのか、いずれ歴史が教えてくれるだろう。

 

〜The end.〜

 

うわー、Bad Endになってしまった。

 

なんか育児負担が「家庭」とか「母親」とかに偏りすぎて大変だから、国全体で子どもを育てるって良いんじゃないかな〜とか思って妄想し始めました。

 

とはいえ、大抵の親は自分の子をより良く育てたがるよね、どんな制度ならクリアできる?と考えて、強制的にランダムに子どもを割り当てるというびっくりな制度にしてみたんだけど、そんな制度かなり抵抗があるだろうから余程の事情がないと受け入れないよねってことで、ズタボロの敗戦後という背景を用意してみて、大混乱から軌道に乗るまでを考えてみたのが前編。

 

前編の設定に乗って更に色々突っ込んで考えてみたところ、「無理やり軌道に乗せようとすると絶対色々弊害が生じるよね」「これ誰が対象になるの?前回の設定で考えるなら国民限定だよね」「あ…これこのまま行くとダメじゃん」となったのが後編でした。

 

一体どうすれば上手く行ったのだろう。

 

制度の間口をそのまま広げる(外国人が国内で産んだ子もランダム割り当てにする)には、外の人達に抵抗が大きすぎるし。

かと言って、制度の中の人たちは、産んだ子を自ら育てられないという、結構大きなペナルティを背負ってるので、きっと産んだ子を育てられる外の人にはフリーライドを許したくないという感情が生まれそうだし。

回避するには、この制度が敗戦のペナルティなどではなく、独自の意義を持つポジティブなものだという認識が、内外に広く伝わって受け入れられる必要があるんだろうなあ。

 

この辺は、実際の憲法観もポジティブに捉える人とネガティブに捉える人の差が激しいなあと思うところで、日本国内でも全世界でもポジティブに捉えられるようになったら、かなり世界の色が変わるんじゃないかなと考えています。

やっぱり9条にノーベル平和賞って、あっても良いんじゃないかな?

一昨年はほら、ICAN核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞したわけだし。

もう世界的に武器は持たないっていう方向に行くの。

だって武力で守るって、個人レベルでも国家レベルでも、全然実現できてないじゃないですか。銃社会アメリカじゃ度々乱射事件が起きてるし。

 

ちょっと脱線しましたが、国家育児社会についても、もし「世界的に子どもは皆で育てるもの」だったら、人類に国境は無意味なものになり、国家間の格差は解消される方向に向かったりしませんでしょうか。どうでしょう。

もちろん、実際にやるとなったら誰が割り当て決めるのかとか、赤ん坊を世界旅行させるの?とか、問題山積なんでしょうけどね。

 

 

国家で育児する社会にするにはパラレルワールドに転生しなきゃなりませんが、保育園増やそうとか子育てに理解のある議員を増やそうとか、そういうレベルのことは子育て世代の皆が選挙に行けば実現可能性があります。

 

選挙に行こう。

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