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『ダルちゃん』が凄い〜『コンビニ人間』と併せて読み解く〜

先日、ヒナさん(当ブログPC版の右側にリンク貼ってあるヒナスイッチの方)がTwitterで紹介してたWeb漫画「ダルちゃん」を読みました。

hanatsubaki.shiseidogroup.jp

はるな檸檬『ダルちゃん』(花椿コミック)

 

全52話。

 

圧巻。

 

序盤の擬態の話なんかは、ちょっとコンビニ人間も思い起こさせるものでしたね。

多分、コンビニ人間ほどエグさは強調していないように思いますが、貫くテーマは似ているような気がします。

 

あ、もうここから先、完全にコンビニ人間に絡めて書きますので、未読の方には申し訳ないです。

すみません。読み手のことを考えない、自分のためのレビューです。

 

 

 

擬態を意識する正気

コンビニ人間をシュールだとか狂気的な物語だと見る人と、「あるある」「リアルだ」と思う人には、なにか認識に溝があるような気がしています。

私は思いっきり後者です。

 

どの辺りがリアルかというと、「普通の人」に擬態する意識についてです。

周囲の人間がどんな生活で何に興味があるのか観察し、空気を壊さないようそれに合わせてみる感覚。それを、自覚的に意識して実行する人と、そうでなく自覚せずその社会の標準的な生き方をしている人って、生き方の認識に大きな差があるのではないかなと思いました。

 

自覚せずその社会の標準的な価値観で生きている人って、多分ですが、コンビニ人間やダルちゃんをみるとシュールに感じてしまうのではないでしょうか。

逆に周囲と自分とのズレを感じ、浮かないよう意識することのある人間にとっては、ものすごくリアル。

 

しかし、ざっと検索して見た限りではコンビニ人間のレビューも後者寄りのものが多かったので、きっと多かれ少なかれ、皆さん「普通の人」に意図的に擬態して生きているところがあるのではないかなと思っています。

 

コンビニ人間では、こうした擬態を意識している正気の人間が主人公(と、キーパーソン)以外に存在せず、自分を貫こうとする主人公の方を狂気的な人間であるかのようにあえて演出しているようにも見えましたが、

ダルちゃんの方は「一見少数派に見えるだけで結構そんな人もいる」「人と違う自分を肯定していい」という、暖かいメッセージを投げかけているように見えました。

 

 

「普通」の呪縛の本質

そうしてみると、「なんだ、普通の人なんていないじゃないか。皆どうして普通の人のイデアなんか追い求めているんだろう」と思えて来ます。

 

「普通の人」って何なんですかね?

私、基本的にず〜っと変わり者扱いされているので、正直よく分かりません。

自分の認識では、違うとしたら私の生い立ちって同世代と何か違ってないか?というくらいの認識なんですけど。

 

家族にすら変人扱いされてますので、何らかの形で規格外なんだろうとは薄々思っていますが、「どこが、どう違う?」かが正直なところいまいち分からず。

初めての環境などでは、とりあえず周りの人を模倣してみたりするなどしますけどね、結局のところ模倣し切れてないらしいです。

なぜ人は出会って数日で私を「変わってるね」とか言い始めるのでしょう。

 

もしかしたら、人って「多数派でいたい」意識があるのかもしれませんね。

ちょっと具体例を出しますと、子どもや動物の社会って、結構えげつなく「少数派」に厳しかったりしませんか?

昔、何かの動物番組で、ニワトリだかアヒルだかの雛鳥の集団に一羽だけ目立つ首輪をつけた雛鳥を入れると、その一羽が周囲の雛鳥から徹底的にいじめられてしまうというのを見たことがあります。

 

ヒトの子どもも、そういうの、覚えがありませんか?

私は小さい時から転園、転校が多かったのですが、最初の被差別経験は「転園初日、上履きの色が違うという理由でハブられる」というものでした。

うちの親もこの出来事は流石に「はぁ?何じゃそりゃ。あんたは何も悪くない」とバッサリ。

 

そうした経験もあり、社会の「普通」の呪縛の本質って、雛鳥のような弱い存在が持つ、多数派でいたい本能みたいなものなのではないかなと感じます。

 

個々人が弱く未熟な社会ほど、同調圧力がキツイのかもしれませんね。

 

 

「普通」の呪縛の壊し方

私にとって僥倖だったのは、最初の経験がニワトリの雛並みの「あまりにもくだらな過ぎる」出来事だっため、自分の正当性を全く疑わずに済んだということです。

 

もし人生の最初にもっと微妙な、少しでも自分の方に非があるのではないかと思わされる事情でいじめを受けたりしていたら、もしかすると今の自分は無かったかもしれません。

 

そうしたいじめ経験なり、何らかの事情で「普通でいなきゃいけない」という呪縛に捉われて生きている人がいるとしたら、それを壊すには「普通じゃなくていい」という新しい規範を自分の中に持つことが必要になりそうな気がします。

 

普通の呪縛が上記で見たような本能的な本質を含むものであるとすれば、これを壊すのはそう簡単ではないかもしれません。

 

他方で、一定程度の規模を持つ社会で、規格から外れた者が他に一人も存在しないということは、確率的にまずあり得ないという気もします。

その辺は、転園・転校を何度もした経験からなんですが。

30人以上の集団であれば、ちょっと浮いている人の一人や二人は存在すると思います。

浮かないように気を遣っているだけで、浮いている人にシンパシーを感じている人は、潜在的にはもっといると思います。

 

私に関して言えば、上履きの色事件での開き直りもあり、「普通と違って何が悪い」という態度を初めての環境でもナチュラルに取れるようになっていた気がします。

そうすると自然に「クラスの多数派からはちょっと浮きがちな個性的な人」というのが(時にはクラスや学校の枠さえ超えて)私の周りに集まってくれたので、そこそこ幸せな子ども時代を過ごせたように思います。

そのおかげもあり、良くも悪くも他人と違うことに対する恐怖心が無くなりました。

 

色々な事情から、周囲に擬態することもありますけどね(しかし「隠し通さなきゃ」とまでは思ってないのですぐ仮面が剥がれます)。

 

 

「普通じゃない自分」を肯定する方法

それから、ダルちゃんの物語の鍵にもなってきますが、表現活動って自分を肯定するのにすごく良いんじゃないかと思います。

自由ネコ師匠じゃないけど、「ブログを書け〜」ですよ。

いや、ブログじゃなくても良いし、音楽でも絵でも何でもいいと思いますけど、何か生身の精神を表出させないと自らが何者であるかって案外分かりにくかったりしません?

「営業部長」でも「歯科衛生士」でも「カリスマ主婦」でも「長男」でも「日本国民」でもない、肩書を付けずに表せる己の何か。

 

普段肩書きで生きてる人にとっては鎧を着ない怖さというのもあるかもしれませんが、肩書きなしの表現活動って自らを見つめ直せる良い機会でもあり、また鎧のない身軽さというのもあろうかと思います。

鎧着て生きてると、そのうち着ているものそのものが人格であるかのように誤解してしまう怖さもありますので、立派なものをお召しの方ほど、一回脱いだ方が良いのではないでしょうか(田房永子さんのマンガが分かりやすいです)。

 

生身の精神で「思ったほど表現できず自分の中身のなさを自覚させられる」こともあれば、「逆にこんな自分でも割と許容されていることに気付いて安心する 」こともあったりするんじゃないでしょうか。

 

いわゆる自己肯定感というものですかね。 

 

自己肯定って、何も「自分スゴイ」ってナルシスト化するわけではなく、良かろうが悪かろうが、ありのままの自分を受け入れることかなと思います。

 

その辺はもう、自由ネコ師匠のこのカテゴリー読むのが一番かもしれない。

gattolibero.hatenablog.com

 

どの記事があなたに刺さるか分かりませんが、これだけあったらどれかは刺さる…気がします。

 

さて、ダルちゃんの物語は中盤あたりから、表現による自己肯定感の育成と、愛についての話になってきます。

これがまた、すごいのですよ。

表現活動の生み出す効果が、良いものだけじゃないんですよね。ものすごい壁にぶち当たります。

短いストーリーなのですが、これ作者の実体験が元になっているとしたら、ひょっとすると実際には結構大変な葛藤に見舞われたのではないでしょうか。

 

結構、突然パッと話題になった作家さんが、実は家族に小説書いてることを言えないでいるとか、創作活動しながらも実生活を守らなければいけないことに苦労するとか、そういう話も時折聞くので、ありそうだなと。

 

そういう問題にぶち当たってもなお、表現することって止め難いものがあるだろうなと思います。

 

 

さあ、皆さん、表現しませんか? 

 

 

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